【雑談】タイムトラベルすると他人の死に疎くなる説

雑談です。長文です。

私、ドラえもんが好きなんです。
ドラえもんを見ている中で、時間移動についてこれは・・・と思ったことがあったので書き残しておきます。

Twitterでつぶやくには長いし、頭の中にだけ仕舞っておくのも勿体ないので書き残します。
タイムトラベル系の話なんで無限に論理破綻はでるのでご容赦を。

時間移動を手にした人間は、人の死に関しての倫理観がぶっ壊れているのではないか?という話です。
(以下、すべてタイムトラベル設定はドラえもんに準じます。世界線は1本。過去改変可能。並行世界は生まれない。)

 思いついたきっかけ

「劇場版ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を見ていた時でした。

 なんやかんや冒険が終わり、原始時代を生きるヒカリ族の少年ククルと仲良くなったのび太一行。
7万年前の日本でヒカリ族は暮らす事になり、めでたしめでたし。
いつものお決まりのノリで別れを告げるのび太達。

「また会いに来るからね~~~~!」

いろんな世界の人達と友達になるものの、会いに行ったことねぇだろお前。とか思いつつ、エンドロールに。

すると、その後大人になり村長っぽくなったククル達のを見守るのび太達の描写が!リメイク前は無かったシーンに驚きつつも嬉しい気持ちも。

笑顔で見守るのび太ドラえもんコンビだが、ちょっと引っかかった。

過去の人物と知り合うということ

のび太達視点でみれば、自分たちは20世紀を”生きる”少年だ。
対してククル達は、原始時代に”生きていた”少年だ。もちろん20世紀の時点で亡くなっている。

のび太達は住んでいる国が違うくらいの感覚で、別時代を一緒の時間軸で生きる友達という感覚で過ごしているものだと思っていた。
相対的な時間は維持したまま共に生きている。と思い込むことで、ククル達は既に亡くなっているという事実から目を背けている筈だと。

f:id:dorapan_1:20210814003019j:plain

でも上記の描写をみてしまうと、ちょっと感覚が違うのかも。
だって、少し間違えばククルが亡くなる瞬間を観測してしまう。
もし自分がのび太の立場だとして、仲良くなった友達の行く末を見てしまう危険を冒せるか?恐ろしい度胸だな。と考えてしまった。

過去人であるのび太

そもそも、同じことはセワシドラえもんのび太達の関係にも言える。
22世紀人からみれば、20世紀を生きるのび太達は死人だ。
ドラえもん1話で、のび太の散々な未来の姿をアルバムで見せるシーンがある。 

 言及はされなかったが、セワシドラえもんのび太の没日まで知っていたであろう。
その上で、のび太に対して「君のこの先の人生、ろくな目に合わない!だからこのドラえもんが面倒見てやるよ!」と言ってのけたのだ。

(もちろん、その世界線を変えるために来ているから。という決意はあるだろうが)

ちなみにのび太の未来を変えると君が産まれないことになるぜ?的な真っ当なツッコミに対してセワシ曰く、行き先が同じであれば手段が変わっても大丈夫との事。

f:id:dorapan_1:20210814003235j:plain

昔の身内に会いに行くということ

アバウト・タイムという映画がある。
時間旅行系の映画をあげると名前はよく出てくるし、好きという人が多い作品だ。
個人的にはこの映画、引っかかる所があり苦手だ。

(多少ネタバレがあるので、未見の方やアバウト・タイム好きな方はご承知おきを)

最大の引っかかりポイントは、タイムトラベルができる主人公の無頓着さだ。

同じタイムトラベル能力を持つ、亡くなった父親に会い、そのタイムトラベルの能力の意味、親子の語らいをする名場面が有る。

このシーン主人公は悩んだ末、過去の父親に会いに行くのだ。
父親からすれば何てこと無いある日に突然、未来からわざわざ息子が会いに来る。
ということは、自分がその時代には息子と会話できない状態であることを急に察してしまう。

つまり自分の余命宣告をされたわけだ。

この残酷さ。余程の覚悟がないとすんなり受け入れられない気がするのだが。

同じ事はドラえもんでもある。
名作として名高い「おばあちゃんの思い出」というエピソードだ。

亡くなったおばあちゃんにもう一度会いたくなったのび太が、昔に戻る。
最終的におばあちゃんに対して、実はぼく、未来ののび太です。と打ち明けるのだ。
おばあちゃん的には、ある程度自分が先短いことを察しており、そんな中でも小学生になったのびちゃんを見ることが出来て幸せだよ。と言っていた。
なんて達観したお人だ。

対してのび太。それ以降、ちょくちょくおばあちゃんに会うエピソードがある。
のび太の中では、おばあちゃんは亡くなった人ではなく、いつでも会いに行ける生きている人なのだ。

振り返ってセワシドラえもんをみてみると、多分のび太に対して同じ感覚なのだろう。

他人の死に意味がなくなる

自由にタイムトラベルができる人間にとって、死人に会うことは普通である。

でも相手からしてみればたまったものでは無い。
もしそれがきっかけで自分の未来に気がついて発狂して死んでしまったとしても、未来人からすれば、別にそれよりも前に戻れば会えるし。とでも考えてしまうのではないか。
未来が推測されうる範囲の顔見知りに会ってはならない。みたいな法整備が急務だ。

整理すると、タイムトラベルできる人にとって、死と向き合うのは、自分の死に対してのみになるのかも。という事だ。

悟空風に言うなら、「でぇじょぶだ!タイムマシンがあるから生きけぇれる!」

そうするとセワシの暴論についても納得がいく。
究極、自分以外の死はどうでもいいのだ。のび太セワシの間にいた筈の命が無いことになっても構わない。
のびたとジャイ子の子供達は生まれることも許されない。
タイムパトロールは一体何をしているのだ。

ドラえもんも、その事実をすべて認識した上で笑顔で過ごすのび太との日常。
さすがロボット。一切の同情の素振りを見せない。

3次元世界に生きる我々からすると、ぶっとんだ考えの奴らだ。
時間という新たな移動軸を手にした時、タイムパラドックスうんぬんの問題の他に倫理観まで様変わりしてしてしまうのだろう。

おわりに

いま私が一番みたい劇場版ドラえもん

ある日、現れたもう一人のドラえもんに襲撃される。
奮戦するのび太と元から居たドラえもん

奔走する中で、時空を越えて現れたタイムパトロールの連隊。
隊員から聞かされた真実。
それは、あり得た筈の、のび太ジャイ子が結ばれる世界線の話。

なんとその世界線のび太の子孫が、自分たちの存在が消されそうになっていることを悟り、自らの存在を守るため行動に移ったのだ。
それは分岐点である20世紀に向けて、彼らが所有する汎用戦闘用猫型ロボットを送り込み、歴史改変の阻止を命じたのだ。

二人のドラえもん、分岐する未来、その時のび太の選ぶ歴史は・・・。

 

 

 

以上です。