【雑談】意味を求めすぎてはならない
雑談です。
タイトルだけだとナンノコッチャと思われるかと存じますが、最近の出来事がぼんやり考えていたことに繋がった感じがあったので書き残しておきます。
物事に意味を求めすぎ無いほうがいいねという事を整理してまとめてみたいと思っています。
色んな話題が出てくるんでご容赦を。
目次
カウボーイビバップの日本語
Netfilixによるカウボーイビバップ実写ドラマ化があるそうです。
ちょっと前に予告が公開され話題になっていました。
カウボーイビバップ未鑑賞のため、そんなに思い入れは無いのですが予告を見てみた感じ、たしかにひと悶着つきそうな印象をもった。
こちらがその予告
オリジナルのアニメの予告も、後追いで見てみたのだけど確かに印象が違う。
配役の納得具合はオリジナル未鑑賞のため何もコメント出来ないのだけど、サムネにもあるように、印象に残るのは背景の日本語文字列だ。
この日本語についてだけ焦点を当ててみる。
アニメのOPではここは英字文字列であり、その内容を翻訳して置き換えたのだと思われる。(深く調べてないんで印象で語っています)
自分のツイッター上での見え方としては、好評な意見もありつつ
ニコニコ動画みたいだだとか、英語圏の人達はオリジナルがこう見えていたんだだとか物申す人が多い印象。
まぁ納得できる意見もある。個人的には、日本語にしたから違和感があるというよりも、フォントと余白(文字配置)の問題と思っている。
アニメは英字が背景色の隙間を埋めるようにビッシリ並べられている。
フォントも太めでベタ塗りではなくて加工されたデザインのある文字だった。
対してこの実写版は割と細身のゴシック体みたいで、文字量も半分以下くらい。
Netfilxがどんな体制で作っているか知らないが、理由は
・日本語フォントの入手が困難だった
・読解できない言語を文脈に矛盾なく配置するスキルがない
・背景よりも俳優に視線を集めたい。
・単なる手抜き
この辺だろうか。
じゃ、なんでアニメ版は日本人からみて違和感なかったのだろう。
おそらく大半の人は英語文字列を”柄”としか見ていないから。だ。
カッコいい主人公の背景に映っているのは、線が交差して意味を成す文字列ではなく、外国で重宝されているらしい雰囲気の良いテクスチャ。
だからオシャレ。という感覚だろう。
英字プリントTシャツもこの感覚と同じ。自分らの生活圏にない文化を取り入れた”柄”だからカッコいい。そういう感じ。
ちなみに、以前近所で「Free Wifi No Sex」って書かれたパーカを着た人を見かけたのだが、これは流石に柄以上の意味を認識した上で着ていたのだろうか。
海外の反応シリーズ
いったん違う話題。
Youtubeで「海外の反応 アニメ」とか、「海外の反応 予告」とかで調べると山程 海外の配信者のリアクション動画が出てくる。
アニメを見ている様子や、公開された映画予告を見ている様子を自撮りしたものだ。
再生回数稼ぎを狙ってオーバーリアクションしているのか、常日頃から感性がビビットなのか計り知れないが、楽しいのでついつい見てしまう。
ある時、日本人配信者のリアクション動画を見てみたが、なんかしっくりこなかった。
原因は日本語で喋っているからと想像した。
日本語で話されると「見たかった反応かどうか」に加えて、言っている内容が「自分の感性と合っているかどうか」という判断が一つ増える。
作品レビューや批評動画ではそれが目的なので良いのだが、反応動画ではひとたび違和感を覚えるとそちらが気になってしまう。
自分が見たいのは、リアクターの感想ではなく感情だ。
ちょっとした英語なら、海外リアクターの反応動画も意味が頭に入ってくるが、別に内容を知りたいのではない。
動画をみてその人達が興奮しているのか醒めているのか感動しているのか、その部分だけを抽出して感じ取りたいんだろう。
「言っている言葉は分からないが、何を言っているかはわかる」というドリフターズの台詞にある位の理解度が適当だ。
ゲーム「Nierシリーズ」の音楽
また別の話題
こちら私の好きなゲームの予告だが、BGMをぜひ聞いてみてほしい。
楽曲に定評があるシリーズ。このボーカル曲いったい何語??と思われたもしれませんが、マルチリンガルなボーカルの歌手さんがつくった造語なんです。
東京オリンピック選手入場もこのシリーズの曲が流れてまして、「イニシエノウタ」っていう曲が好きすぎるんです。
ゲーム内で聞きすぎて何故か口ずさめるニーアファンは多いと思う。(くわたーつのおゔぁらーい)
これも何が良いって、造語だから意味が頭に入ってこない。なので世界中のどのプレイヤーもゲームプレイのノイズにならない。これは発明。
テレワーク中のBGMにもピッタリで、ニーアシリーズのサントラかけまくっているこの頃です。
本題の「意味を求めすぎてはならない」件
この言葉、実は私の言葉ではないのだが、映画ライターの高橋ヨシキさんが出演している動画でこの様な事をおっしゃられていた。
それがめっっっっっっっちゃその通りだなと思ったんです。
1:37:38辺りからの、「〇〇に意味はあるんですか?」というメールに対してのコメント
この意見まさにその通りだと思っていて、自分は映画感想を述べるときに常に気をつけている。
映画の構造とかメタファーとか社会的メッセージだとか、それは作品外との繋がりであり、作品内の物語についての感想が最初にあるべきだと思っている。
これはそんな大それた事ではなく「すげー!」「たのしーー!!!!」「マジ泣いた」「面白ええええええ!」「マジクソ」とかそんなレベルの階層だ。
で、なにが「すげー!」と思ったのか述べれる。それにプラスして、コレは監督が意図した所は多分なんちゃらかんちゃらというウンチクが付随すべきだ。
最初っから「コレコレそういう暗示で~~。実はここの小物はなんちゃらのオマージュで~~~。チミ達きちんと理解できたぁ?」的なレビューや感想は何か違うと感じていた。(悪意に満ちた言い方したけど)
漫画家の藤本タツキ先生の読み切り作品「ルックバック」が公開された時も、めちゃくちゃ憶測や考察が飛び交い、修正が入ったときには見当違いな議論が散見された。
みんな国語の授業中なんか?と思ったくらいだ
あの作品の修正内容うんぬんは、本筋からはあまり重要ではないと思うし、作品外の指摘に対して紳士に向き合った結果だ。
「ルックバック」という物語が伝えるエネルギーは何も変わっていないと思う。
そこを抜きにして、作品外の話を絡めてあーだこーだ議論の盛り上がりにすごく違和感を感じた。
で、結局なんなん?というか、まとめ
冒頭から長ったらしく書いてきたが、
つまり意味をつけ過ぎたり、それを求め過ぎたりすると、純粋な作品が語りたかった本筋が見えなくなりませんか。
逆に作品中で、作り込みが甘かったり、意味のない描写は、実はそれ以外の箇所に意味をもたせたいからではないですか?と思った次第です。
映画なんかを見て、考察にふけるよりもまずは自分は何を感じたのか。を大切にしたい。
同じ様に作りの問題(あのカメラワークが~とか、CGが~とか)も作りの話なんで個人的には重要度低いかな。
「この作品は高尚な推察ができないと楽しめないよ」なんてアホらしい考えを伝播しないように楽しみたいな。ということです。
以上です。